高架下のメモ帳

考えごとの記録など。

再開

しばらく放り出していたけどまた書き始めることにする。

 

ものを作るアカウントで語るには野暮で、日常会話でするには重かったり恥ずかしいタイプの考え事は常日頃からしていて、それを書き出す場所はやはり必要だと思い直した。

自分のようなタイプの人間は、素のままの思考を大々的に開陳しても誰も得はしない。おそらく分かる人にしかわからず、それ以外の人にはノイズにしかならないものが書き上がるが、それをすべての人に向けて垂れ流していくのは公害でしかない。
ブログという形式もちょうどいい。読みたい人の目にだけ触れて、そうでない人は存在を認知しなくていい。そういう場所でしか、自分の最も根っこにある部分を前面に出していくことはできないのだろう。


もういい加減、諦めがついてきたところもある。本当にツーカーで繋がれるような人間は、少なくとも自分の手の届く範囲にはいない。
当然ではある。自分だって、ふらりと表舞台に出ていって普通の人と楽しく交流できるわけではない。この種の人間自体はどこかにいるかもしれないが、きっと奥まったところでひっそりと世界と戦っている。

それどころか、そういう人間がどこかに存在すると期待すること自体が不毛であるように感じ始めた。
自分を変えることはできるが、他人を変えることはできない。異なる場所に逃げることはできるが、環境自体を作り変えることはできない。いるともいないともしれない誰かを当てにすることは単なる博打で、正しい判断とはいえない。
そうなると、誰かにわかってもらおうとする、わかってくれる人がいると期待すること自体が誤りだ。今この与えられた状況の中では、事実としてそういうことは望み得ない。

どこかに行けば同類が「いるかもしれない」とは考えられるが、いることを前提とした意思決定は誤っている。自分とは違うものとしての他者を理解し、コミュニケーションしていく世界観で、生き方の指針を考えていく必要がある。

 

同類だの自分と違うだのという言葉を弄してはいるけれど、自分自身も、置かれているこの状況自体も、そう珍しいものではないのだろうとは思う。人間誰しも相異なっていて、その程度がどれだけ違うかという話でしかない。100%通じ合えないのは当たり前のことだ。
誰かとならわかりあえるという幻想に甘んじるのではなく、誰ともわかりあえない中で、どれだけわかろうとしていけるかという、基本的な姿勢。これを保ち続ける気概を持ちたい。