高架下のメモ帳

考えごとの記録など。

再開

しばらく放り出していたけどまた書き始めることにする。

 

ものを作るアカウントで語るには野暮で、日常会話でするには重かったり恥ずかしいタイプの考え事は常日頃からしていて、それを書き出す場所はやはり必要だと思い直した。

自分のようなタイプの人間は、素のままの思考を大々的に開陳しても誰も得はしない。おそらく分かる人にしかわからず、それ以外の人にはノイズにしかならないものが書き上がるが、それをすべての人に向けて垂れ流していくのは公害でしかない。
ブログという形式もちょうどいい。読みたい人の目にだけ触れて、そうでない人は存在を認知しなくていい。そういう場所でしか、自分の最も根っこにある部分を前面に出していくことはできないのだろう。


もういい加減、諦めがついてきたところもある。本当にツーカーで繋がれるような人間は、少なくとも自分の手の届く範囲にはいない。
当然ではある。自分だって、ふらりと表舞台に出ていって普通の人と楽しく交流できるわけではない。この種の人間自体はどこかにいるかもしれないが、きっと奥まったところでひっそりと世界と戦っている。

それどころか、そういう人間がどこかに存在すると期待すること自体が不毛であるように感じ始めた。
自分を変えることはできるが、他人を変えることはできない。異なる場所に逃げることはできるが、環境自体を作り変えることはできない。いるともいないともしれない誰かを当てにすることは単なる博打で、正しい判断とはいえない。
そうなると、誰かにわかってもらおうとする、わかってくれる人がいると期待すること自体が誤りだ。今この与えられた状況の中では、事実としてそういうことは望み得ない。

どこかに行けば同類が「いるかもしれない」とは考えられるが、いることを前提とした意思決定は誤っている。自分とは違うものとしての他者を理解し、コミュニケーションしていく世界観で、生き方の指針を考えていく必要がある。

 

同類だの自分と違うだのという言葉を弄してはいるけれど、自分自身も、置かれているこの状況自体も、そう珍しいものではないのだろうとは思う。人間誰しも相異なっていて、その程度がどれだけ違うかという話でしかない。100%通じ合えないのは当たり前のことだ。
誰かとならわかりあえるという幻想に甘んじるのではなく、誰ともわかりあえない中で、どれだけわかろうとしていけるかという、基本的な姿勢。これを保ち続ける気概を持ちたい。

睡眠との付き合い方

職場から帰ってきたあと疲れに身を任せて眠って、ああよく寝たなと思って目覚めたら2時間しか経っていなかった。
不思議なもので、あまり早い時間に床につくと、僕の体はそれを昼寝だと判断して短時間で目覚めさせてくれるらしい。
体感ではしっかり一晩寝たような感覚があるけれど、だからといってこのまま起き続けて一日快適に過ごせるわけではない。どこかで眠気のしっぺ返しが来る。

 

眠りとの付き合い方は自分にとって長年の大きな課題だった。寝ようと思うといくらでも眠れてしまうタイプだし、眠ること自体も幸せで、許されるなら毎日10時間ぐらいは寝たい。いわゆるロングスリーパーと呼ばれるような体質なのかもしれない。
睡眠時間が8時間を切ってくると、朝起きられなくはないけれど、目を覚ましていなければいけない場面でも居眠りしてしまうことがある。これは自分の意志ではどうにもできなくて、たとえ運転中だろうが面と向かってお説教されている途中だろうが関係なく寝落ちしてしまう。それが怖くて、一定時間以上の睡眠は必ず確保するようにしてきた。

ただ、これから先はそうもいかないような気がしている。時間が圧倒的に足りないからだ。
社会人になって、仕事自体はまあ楽しいからいいのだけど、確定で平日8時間以上、移動や休憩、残業時間も含めると12時間ぐらいは仕事に拘束されることになる。
24ひく12で残り12だ。そこから8時間寝ると4。家事や身支度で朝晩1ずつ持って行かれて2。2では正直、生産的な活動はほとんどできそうにない。
せめて6時間睡眠に落として4時間の連続した空きを確保しないと、平日にある程度大きな問題に取り組むことは難しい。平日に取り組めないタスクについて、まともに上達したり形にしていくのはおそらく無理だ。

会社員生活が始まって自由度が減ったばかりではなくて、逆に自由になった部分もある。例えば、業務中の好きなタイミングで席を立ってコーヒーを流し込むことはできる。授業みたいに常に座った状態でいなくていいし、必要な分だけカフェインを入れられるので、眠気をこらえる手段の引き出しが増える。
これからは強い意志を持って、睡眠を削る方向に試行錯誤していくつもりでいる。

 

気になるのは、睡眠と創作能力の関係だ。今まで書き上がりこそしなかったもののいくつか小説作品に手を付けたことがあったんだけど、ネタになるようなアイデアが閃いたのは決まって夢だったりベッドでまどろむ途中だったりした。
夢の中が一番思考のリミッターが外れて創作に役立つような自由な発想が出てくる場だし、そこを蔑ろにして果たして上手くいくのだろうかという懸念はある。
しばらくは様子を見ながら、睡眠との付き合い方を考えていきたい。

今後のブログ運営方針

好きなもの探し

自分が興味を持ったことに関する文章を書く活動をしていきたい。
カテゴリをぽんぽん立てて気楽に自由に書き溜めていく。

書きたくなった時に書きたいことを書いたログが溜まっていくので、最終的に記事数が多くなったカテゴリが恐らく自分の興味が一番向いている対象ということになる。
そういうものを外向けの趣味とか関心領域にして、同じジャンルの人と交流していければいいなと思う。

友人探し

好きなジャンルが定まった後になるかもしれないけれど、ネット上で誰かと仲良くなりたい。
できれば境遇的にもシンパシーを感じられるような人と繋がれたらと思うけど、そんな人と出会えるんだろうか……

後ろめたいこと消し

自己認識が弱いこと、そのせいで自己開示ができないこと、さらに突き詰めるとコミュニケーションに支障をきたしてること。最終的にはその後ろめたさがつらい、ないし周囲に対して申し訳ないというのが問題の根っこだと思う。
こういう後ろめたさはいくつもある。色んな後ろめたさが積み重なって自信のなさにつながっている。

過去がすっからかんなのはどうしようもないけれど、今からできる範囲で、こういう後ろめたさは一つ一つ解消していきたい。それについて色々考えて記事を書くかもしれない。

思考ログの継続

相変わらず考えたことを脳直で吐き出したような記事は書いていく。悩んだことがどこかの誰かの役に立つこともあるかもしれないし、悩むことは自分の側面の一つで、これを欠いた自己開示は嘘になりそうだから。
とはいえ、ただ吐いたものを撒き散らすような感じではなく、できればコンテンツとして成立するような工夫は心がけていきたい。

飽き性と自己認識

特に更新頻度をどうしようなんてことは考えず、思いついた日は2回でも3回でも書き、何も降ってこない日は無理せず何も書かずに終えようと思う。経験上、そうしないと続かない。


何についてもそうだけど、物事を習慣づけて継続するということが壊滅的にできない。ある瞬間に猛烈に熱中して飯も食わずにやり続けて、目標を達成したりどうしようもない壁にぶつかったら放り出して忘れ去る、という動きしかできない。たぶん生まれてこの方ずっとそうだったと思う。

今は思考を書き出すスイッチが入っているのでいくらでもこういう文章を吐き出せるけど、一度スイッチが切れると机に向かっても何も書けない状態がやってきたりする。そうなったらいくらやってもダメで、無理にやろうとすると下手すると一日中ひたすら頭の中で堂々巡りを続けて結局一行も進まないとか、何か別の逃避対象に移って破滅的に時間を溶かすとか、寝逃げして自滅するとかになってくる。

飽き性と言ってしまえば一言で済む。けれど、何か病的なレベルのそれであって、これも自分の個性といえなくもないように思う。これは今後も劇的に変わったりはしないだろう。

この飽き性に付随してもう一つまずいところがあって、飽きて放り出し、忘却した対象について、自己評価を落としてしまう悪癖がある。昔の自分が行ったすべてのことを、何か汚らわしい、取るに足らないようなものだと突き放してしまう部分がある。

実際にはそんなこともなくて、過去のアウトプットを勇気を出して読み直してみると存外に面白かったり、多少なり評価できる部分が見え隠れしたりするんだけど、自分にとっての歴史は今まで漏れ無く黒歴史だったせいか、振り返ることを本能的に恐怖しているらしい。

 

この飽き性と過去から目を背ける悪癖が重なって、自己紹介できない自分ができあがる。
趣味は何か?と聞かれた時、頭の中で過去の足跡を振り返る。
文章を書くことだろうか?いや、最近はあまり書いていないし、書いている文もこんな思考ログぐらいでとても表には出せない。
創作か?小説は完成まで書き上がったことがないし、絵は見せられるような出来のものがないし、音楽は1年ほどでやめてしまった。
読書やゲームか?よく読んだ年はあったが最近は読めていないし、ゲームはいろんなソシャゲネトゲを突っついただけで語れるほどにはやってない。
こんな思考が頭の中をぐるぐる回って、結局答えられずに終わる。

全部趣味だと言ってしまえばいいのかもしれないけど、そうすると掘り下げられた時に何も答えられないことが多い。というのは、一度放り出したことは大部分忘れてしまっているからだ。
頭の奥底には残っていて、きっかけがあれば少しずつ引きずり出すことはできる。例えば、ゆっくり考えて文章に起こす形式でいいならわりと語れはする。だけれど、その場でぽんと聞かれて応えられるような形式では脳内に保存されていないので、結局気まずく言いよどむことになる。


こうやって書くとこの飽き性が自己認識を曖昧にさせている諸悪の根源で、かつそれは自分と不可分なものであり、今更どうこうしても簡単には変わらないようなものであることがわかる。
どうすればこの自分の気質と上手く付き合っていけるだろうか。

今までの自分は、匿名でアウトプットして、それをアカウントごと切り離して忘却することを繰り返してきた。そして今も、懲りもせずまた匿名でブログを始めてしまっている。恐らく、そうしなければ問題は解決する。

例えば、実名で始めてしまって、日々会う人から「あれ放置してるけどどうなってんの?」と聞かれるような形を作れれば、恐らく自分は見栄ブーストで放置せずに取り組めるだろうし、自分のアイデンティティの発露であるところの活動を忘れ去ってしまうこともなくなるだろう。掘り下げる必要があればアウトプットを見せればいい。見ながらであれば、その作品の成り立ちについても思い出しながら語ることができる。そういう方向が、恐らく正しい。

ただ、今までの自分にはそういう方向を取るための精神的な体力がなかった。そもそも自分に対する自信が壊滅的になくて、何か自己が介在したものを公開して批評されることに対する恐怖があった。中高生の頃なんて、全くの匿名である2ちゃんへの書き込みでさえ、否定的な反応が返ってくると辛くなって寝込むぐらいには酷かった。

それから、このブログで書くような思考ログを、実名に紐付けるわけにはいかない。自分は社会不適合者だけれど、今や社会人であって、節度と良識ある行動が求められる。しかし、対社会ガードを剥ぎ取った素の自分にそんなものはない。
要はどこかで踏み外して炎上して、所属する組織に迷惑をかけずに済む自信がないということ。あるいは、燃やさないように気を遣った状態で書き続ける自信がないということ。何者でもない無名のネット民が思考を開陳していても誰も気にも留めないだろうが、それに会社の名前が間接的にでも紐づくと状況が変わってくる。
他にも、例えば創作活動にしても公序良俗に反するネタを書きたくなった時に書けるようにしておくためには、やはり実名からは切り離しておく必要がある。変な制約がかかると、本来のめり込めることにものめり込めなくなる。

いずれにせよ、実名サイドでできることはきちんとしていくのが状況を前に進めるための一つの方法だろう。実際、やるべきこともやりたいこともある。後は、前に進む情熱を絶やさないことだけ意識すればいい。

そしてもう一つ、実名サイドでできない活動についても、責任を持ち、手放すことなく背負っていく必要がある。実名に紐付けられないこともやはり自己であり(しかも自分の場合その割合はかなり大きい)、意識できるところに記録として残しておかなければ、総体としての自分を認識できなくなる。

ネット上でも一つの名前に活動を集約して、第二の自己だと思って切り離さずにやっていく。
できればこのブログとカケスというアカウントをそういう存在にしたい。

ブログの書き始め

ブログの書き始め。


地方から東京に出てきて、社会人として勤め始めて一ヶ月ほど経った。色々と思い悩むことこそあれ、それなりに社会人らしく組織で生存できていて、拍子抜けしたような気分でいる。

というのも、自分は今までどうしようもない社会不適合者で、ないリソースの大部分を日々を切り抜けることだけに向けてなんとかかんとかやってきた人間だから。

会社の同期や先輩方は皆優秀で人柄もよく(正直自分がなぜこの会社に受かってしまったのかよくわからない)、何より自信に満ち溢れてキラキラしている。
自分はどういう人間で、何が好きで、何が得意であるか表明することに何の迷いもないし、自らの個性を誰かを楽しませるために活用していくことにも長けている。

翻って自分を見ると、この一つたりともまともにできない。自分の個性を上手く活用していくどころか、何が得意なのか、何が好きなのか、自分が一体どういう人間なのかすらも把握できていない。周りの人たちはよくしてくれて居心地はいいけれど、内心ぽかんと宙に浮いたような気分でいる。

自分の生育環境だったり、過去のトラウマだったり、あるいは生まれ持った発達特性だったり、いろんなものが影響してこの自己認識の弱さ、自信や自負の欠如に繋がってるんだろうけど、いつまでも引きずってはいられない。

今までは、自分が社会において生存していけるかどうか。そういう世界観で生きてきた。至らない自分と厳しい社会との戦い。隙あらば引き篭もって自堕落な方向に逃げようとする自分に鞭打って、そんなんじゃ野垂れ死ぬぞと叱咤激励して、少しでも安全そうな、生き延びるための高台に這い登る。その繰り返し。

けど、幸か不幸か、思っていたよりもあっさりと自分を自分で食わせられるところまで来てしまった。ここからは、生きるか死ぬかではなくて、どう生きるかが問題になってくる。

どう生きるのが自分にとって幸せだろうか。どう生きれば周囲の人々と長く心地よい関係を築いていけるだろうか。どう生きるのが、将来の自分が後悔しない一生に繋がるだろうか。
このあたり、今まではあまり考えてこなかったように思う。なにせ、生きていける自信がまるでなかったから。


自分にとって幸せな生き方を見つけるにせよ、周囲の人たちと関係を築いていくにせよ、まず自分は何が好きであり、何が得意であり、一体どういう人間なのかを明らかにしないと始まらない。
自分の幸せは自分の好みの延長線上にあるだろうし、他人と関わるにも自己をきちんと表明できないと相手も困るだろう。

好きなこと、得意なことというと、こうやって思い悩んでは思考を文章に起こすことがなんとなく思い浮かんだ。今まで幾度となくやってきて、もう息をするように悩めるし書ける。
趣味は悩むことです、なんて言ったところで相手も反応に困りそうだけれど、これが現時点の自分の最も誠実な自己紹介ではある。

こういう思考ログを面と向かって他人に見せる気にはならないけれど、匿名でネットになら放流できるし、ひとまず表に出すことにした。
もし自分に個性なんてものがあるのなら、このブログに書き記していく側面は間違いなくその個性の一端で、いずれにせよどういう形かで相手に示していけるようにしなければいけない。

この場では、俗に言う自分探しというか、自己の再認識と個性探しというか、そういう作業をやっていきたい。そのまま書くと本当にチラシの裏でいいような内容になってしまうので、できればコンテンツとしての見せ方も考えていきたいところ。自分を構成する要素の中で、売り物にできそうな部分はどこなのかという模索。

ブログタイトルは語感で3秒で考えた。更新はしたくなった時にする。