高架下のメモ帳

考えごとの記録など。

生きる理由について

昔から自分がなぜ生きるのか、どこを目指して生きるのかを見失ってしまうことがあり、度々その時点の思考を書き出しながら模索してきた。

何度かの書き直しを経て、今はこういう心持ちで生きている。自分の信念の話であって他人にそのまま当てはめられるものではないけれど、いつか誰かの役に立つこともあるかもしれないので書き出しておく。

生きる理由について

人間は、科学的に判断できない対象に対しては信仰をもって向き合うしかないといえる。
例えば死生観は信仰によってしか定められない。
自己という唯一の存在に降りかかる死という現象の向こう側は、たった一度しか発生せず、発生とともに観測者が消滅するという性質のために、再現性を確保できない。
死というものはこのようなものであると予想し仮定する、ただそれだけしか我々には許されていない。この否応なしに置かなければならない仮説を仮に信仰と呼ぶ。

宗教というものは、この種の問題に対して当てはめる仮説をパッケージ化したもの。
死の向こうには何があるのだろうか、この世界はどのようにして生まれたのだろうか。われわれは何のために存在するのだろうか。
そうした問題に対して教義という一本のストーリーで答えを与えている。

しかし、個別の問題に対して仮説は必要だが、それがパッケージ化されている必然性は本来ない。
それぞれの個人がそれぞれの問題に対して個別に仮説を持ってよい。むしろ信仰のパッケージ化は、本来そこにあった自由な思考を妨げるものである。
であるがゆえに、私は既存の宗教をそのまま受け入れることはない。この意味で無宗教を貫くと決めている。
しかし信仰自体をしないわけではない。むしろ積極的に個別の問題に対して自ら仮説を用意する。
手作りの信仰のパッケージを持つ、いわばじぶん教の信者であるということはできるかもしれない。

そのうえで、自分は死というものについて、平均的日本人に近い認識を持っている。
死の向こう側には何もない可能性が高い。意識を失いそのまま浮き上がってくることはない。永遠の無に閉ざされる。そう信じている。
これをベースとして、生きるというのはどのようなことか、どこに向かって生きるべきかを決めている。

このような前提に立つと、どのような積み上げも最終的には無意味になる。
死を境にして何も引き継げずに無に還るため。
人はただこの世に生まれ落ち、世界のいくぶんかを自らのうちに取り込み、世界のいくらかに書き出して消える、それだけの存在に過ぎない。
そして自らが消えたとき主観世界も消えるために、何を書き出しても結局は意味がなくなってしまう。何を書き出したとしてもたどり着く無という終着点には何らの変化も起きないため。
この世界観のもとで、自己が選び取るべきなのは、生ある間の自己の幸福に寄与するような過程でしかあり得ない。結果の良さを選べないのであれば、過程の良さを選ぶしかない。

では、自己にとって生ある間の幸福になるような、望ましい過程とはどのようなものか。
これもどこかに答えがある問題ではなく、わずかな経験を手掛かりに自ら決めなければいけない問題。なおかつ、普遍的な答えは存在せず、個人によって変わるであろう問題。したがって以下に書くのは個人的な信念である。

自分が望む幸福とは、短絡的な快楽ではない。そうしたものは受け取る時点ではよいが、受け取ってから後は空しくなるばかりであるため。
真に自己にとって幸福なのは、今自分はあるべき姿であり、為すべきことをしている。進むべき正しい道を歩んでいる。そういう自覚のもとに、有意義だと信じられる何事かをなしていくこと。
そうして、命を失うその時に至って、やりきったと、与えられたカードを使ってやるべきことやりうることをすべてやったと、そう思って死ねること。これこそが自己にとっての幸せな過程である。

また、過程の望ましさとはどのようなものか。
それは言い換えれば、自分にとってきちんと理由づけられた、そうでない他の姿よりも望ましいあり様のことである。
このテキストで模索しているような形で考え抜き、自らに与えられた選択肢の中から、自らが最も欲するものを選び取ること。なぜそれを選んだのか自覚し、それに納得できる状態を保つこと。
これは物事を不断に考え抜き、選び取り、実行に移すことの繰り返しによって成る。

ではこの望ましさはどこから生じてくるのか。AよりもBでありたい、その判断基準はどこに置かれているのか。
自分にとって、それは美である。こうあるよりも、こうあった方がより綺麗だ。それすなわちより望ましい。そういう判断をしている。
これは形あるものばかりではなく、例えばシステム、概念、そうしたものにも向けられる。

他者の存在を認めるか否かも究極的には信仰によってしか解決できない問題だが、私はわたし以外の他者の中にも私と同じような意識があると信じている。
そうなのであれば、彼らがより幸せになれるような世界が美しい。
あらゆる人が今よりもほんの少しでも幸せでいられる世界は、今よりも美しい世界である。そう考える。

世界はどのようにあれば美しいのか。それをどこまでも追い求め、もし自らにしか成し得ない形で、世界をより美しく前へ推し進めることができたなら。
それによって人々をわずかずつでも幸せにすることができたなら。
それは自己にとって納得できる過程となり、満足して死ぬことができるだろう。

前述したとおり、世界に何を書き出しても究極的には無意味である。
そうであったとしても、世界をよりよくする営みに貢献したという自負が、他の何よりも自らを満たすことができる。であるがゆえに、私は美しいものを生み出すことを目指さなければいけない。

人間は想像力という、人間にしか持ち得ない翼を持っている。
それは現実を認識によって分解し、心の裡で噛み砕き、再構築し、現実の制約から自由な場で、より美しい世界のあり様を組み上げることができる。
人類の発展の歴史は、すべて先人の想像力の賜物であるといえる。
彼らが何かを思い描き、思い描いた情景へ向かうために手足を動かした結果、今がある。
あらゆる先人にとっても、同じ視点に立てばこの世界は無意味だったはず。にもかかわらず彼らは、この世界に爪痕を残すことを選んだ。その積み重ねが文明を産み出すことになった。

私はその営み自体を美しいと感じる。であるから、その世界観を支持し、推し進めていきたい。
自らもこの世界を想像力によってより美しくしていきたいし、想像力によって世界に挑みかかる人たちが、より存分にその腕を振るえる世界に近づけていきたい。
私はこれを目的として、微力であってもこの手足を動かして生きていくことにする。

2019/07/14

気取らずいわゆる「普通のブログ」を書いてみたいと思い立った。どうも何かに特化させることを考えると後から億劫になってしまうので。

ずっと自身のアイデンティティを定められずにインターネット上をふらふらして、アカウントを作っては潰し、固定された関係も作れないまま生きてきたけど、そろそろ何か腰を据えなければという思いが年々強まっている。

 

移り気な自己の性質に誘われるまま、いろんなことに手を付けてはやめていく中で、唯一常に繰り返してきたのが書くことで、これだけは手放してはいけないし、これをもって世界に身を晒していかなければいけない気がしている。

昔からあまり器用に生きることができなくて、それでいて誰かしら頼れる相手もいなくて。何か苦しい壁にぶつかってはそのたびに必死に悩んで、それを文章に書き起こして、幾重にも推敲して、反芻して、身につけることでどうにか乗り越えてきた。

今の今までこのサイクルが途絶えたことはない。もしこの世からテレビやアニメやその他娯楽が消えたとしても生きていけるが、キーボードとテキストファイルを奪われたら生きていけない。そのぐらい書くことに依存して生きてきた。

 

決して美文名文が書けるわけではないし、小説や詩を書く才能もないし、だからすぐさま文章によって何か目に見えた結果が生まれるわけではきっとない。

でも、自らにとって自然な営みであるところの書く行為を積み上げていけば、きっとどこかに至ることができる。そう信じて、外に向けて書くことと向き合っていきたい。そう思う。